国債と金利をめぐる300年史
国債と金利をめぐる300年史~英国・米国・日本の国債管理政策
- 作者: 真壁昭夫,玉木伸介,平山賢一
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2005/07/15
- メディア: 単行本
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序章
90年代
米国 財政黒字 債務残高減少
欧州 安定化協定により財政健全化へ?
日本 財政悪化
2000年代
米国 株価下落、イラク戦争
欧州 景気回復のため歳出増
国債管理政策
予算管理、調達管理、貨幣価値管理
国債の起源 中世イタリア(1171年 ベネチアの強制借入れ)
17世紀にスペイン・イタリアが衰退し、イギリス、オランダが台頭
衰退した国の利率は上がり、覇権国の利子は下がる
ベネチアはシノッガ戦争までは利息の支払いがと碁凍らず、高値で取引
他の王朝の信用度は概して低い
フランスのシャルル8世は年率100%の利子を求められた
1550年から1620年にかけてイタリアの物価が2.5倍に(アメリカからの銀流入を受けて)
融資を受けていたスペインがデフォルト
イタリアもスペインも、王家の予算管理はいい加減
オランダは17世紀に覇権国に
王家は予算管理に長じる
貿易による富が国民にも行き渡り、国の年金国債を購入
18世紀に没落するも、金利は低いまま
第一章
18世紀の英国
オランダの国債管理システムを踏襲しながらも独自の工夫
本格的な国債管理の始まり?
独自の改善策
発行総額と期間をその都度公開
割当請負制度
一回の発行額を増加させ、毎回の発行形態を統一し、流動性を高める
王権が議会の制約を受けていたことも、合理的な国債管理を促す要因に
1720年以前と以降で国債管理に違い
18世紀に短期債から永久債に転換
国債の買い手は限定されていた
南海バブルの崩壊によって批判を受ける
その後は個人投資家向けに
1970年には15%の国債を外国人投資家(主としてオランダ人)が保有
敢えて(オランダやフランスではなく)英国の国債を購入した理由
議会が責任を持つ、一部租税が利払いの抵当に、減債基金が存在、財政の公開が義務化、投資家保護制度
減債基金は国債管理に有用ではあるものの、国債の流通額が少なくなるため、常に資金を国債で運用したい投資家から不評
そのため、減債資金は当初の目的にはあまり使われなくなる
一般投資家に籤や年金の付与
第二章
資金調達の拡充 ほとんどが戦争に際して
ウォルポール辞任後、数多くの戦争に干渉
予算管理は諦め、調達管理を重視
公債請負人を介しての売買
請負人に分割での支払いを認める
ユダヤ系資本が台頭(1657年に活動を許可)
ギデオン 請負人だが政府に助言も
利率4%の国債が負担になっていたので、無理やり3%に
利率引き下げに応じない者には額面償還
議会、市場関係者の意見の聴取を含め、一応手続を踏んでいたので、信任の低下は限定的
1717年末 長期未償還残高 3100万ポンド
1787年末 長期未償還残高 2億3800万ポンド
公債償還委員会による減債システム
国民の間には減債よりも減税を望む声も
綿密な国債管理政策と、マメなヒアリングの効果で、英国債は戦時でもそこまで利率が上がらず
南海バブル崩壊後は投機の対象にはならないが、政府の安定した資金獲得源に
第三章
19世紀に入ると戦争が少なくなり安定期に
国家財政も健全化へ
産業革命を受けた投資ブーム(例えば鉄道株)
19世紀半ば 長期国債から有期年金へ
目立った予算管理策はないものの、政府債務は減少へ(19世紀初頭にはGDPの3倍の債務)
人口増が主な理由?
19世紀後半 戦費だけでなく社会保障費のための支出の必要性も
基本的に均衡財政よりも国内産業の成長を優先
ただし減税の要求には応じず、有期年金への移行によって債務圧縮
投資家からは不満も
19世紀終盤になると批判が強くなる
1875年までは、減税圧力で所得税率低下
4%から1%を下回る水準へ
その後は強力な減債制度と共に、増税・財政拡大路線へ
3%クーポンを強制的に2.5%クーポンに借り換えるも、巧妙な制度により投資家の不満は出ず
p.72 表3-2 英国総支出に占める支出の内訳
1850年 総支出:55.5Mポンド 債務対価:51.4% 陸軍等:16.0% 海軍:11.2%
1900年 総支出:143.7Mポンド 債務対価:16.1% 陸軍等:30.3% 海軍:18.1%
第四章
長期金利のピーク
英国:1974年
米国:1981年
1920年代の株式ブーム 英国ではさほど盛り上がらず
恐慌の影響も軽微
1700年:30%→1820年:340%→1910年:40%→1930年:150%→1945年:250%→1980年:50%(目分量)
1910年の段階ではほとんどが長期債務だが、以降は短期債務が中心に。
1920年以降、外国(主として米国)からの借り入れも。(ただしGDPの20%前後に留まる)
戦時の出費には、まず増税より債務増で対応
遅れて増税したために、結果的に大きな税率(第二次大戦時は所得税率50%)に。
1915年には約12億ポンドの戦争債務
債務の返済のために資産課税を検討
1931年 金本位制からの離脱
1973年 変動相場制
1974年 コンソル債利回り18%に
インフレ率30%超
物価連動債の発行により、インフレ管理の姿勢をアピール
第六章
アメリカ独立戦争 1775-83年
独立以前から大陸会議が政府の役割
開戦の1年半後から国債を発行。米国内だけでなくフランス、オランダにも買い手が。
GNPの86.9%まで拡大。
利払いは一度も実行されなかったため、1781年には額面価値の1%まで価値が下落。
(この時の大きな混乱が中央政府機能の整備の動機の一端になった?)
初代財務長官アレキサンダー・ハミルトン
当時は「返済の必要はない」という意見が主流。(それよりも増税を避けたい)
ハミルトンは将来の資金調達のためにも、返済を重要視。
建国初期(18世紀末)の金利は、不安定だが概ね8&%前後
1830年頃には4%程度まで低下
米国財務省借入れ
1804年:8643万ドル 1812年:4521万ドル 1816年:1億2734万ドル 1835年:4万ドル
債務の返済により、米国政府の信認が高まる
南北戦争 1861-65年
欧州では大きな戦争がなかったため、金利が抑制されていたが、米国は南北戦争のため、欧州と異なり一時的な金利上昇
戦費は北軍のみでも32億ドル
1861年に6.45%まで上昇するが、1814年の水準よりは低い
グリーンバック(紙幣、無利子国債という見方も)の発行による戦費の調達(15%ほど)
処理を誤るとインフレを引き起こし、国債の利率に影響
マカロック財務長官は弊害を考慮し、財務余剰による買い取りなどで、グリーンバックを回収
国債残高が多い→増税(しばしば逆進的な消費税)による返済→富裕層への所得移転
19世紀後半の米国では減債が行われたため、再配分の方向としては好ましい
第七章
20世紀の米国の政治的四大イベント
第一次大戦、ニューディール政策、第二次大戦、冷戦(ベトナム戦争含む)
経済的四大イベント
FRBの組織化、大恐慌、インフレ(1965-)、ドル・ショック(1971年)
恐慌以前の政策は「短期債は避けて長期債に依存せよ」
第一次大戦後(恐慌前)の政策は投資家の利益を重視?
あと、満期期日の平準化(償還のタイミングを分散させる)
古典的な国債管理政策の範疇
第一次大戦後はそれなりにインフレ率を管理できたものの、それでも15%超のインフレに。
古典的国債管理政策:インフレ回避、国民の税負担軽減
本来利率の観点では、不況期に長期債を発行し、好況期は短期債で対応した方が利率の観点で有利だが、民間のリスク許容度調整のために逆を行う
第八章
1951年 「アコード」
買いオペの停止
国債管理政策は、適度であれば金利の安定化に貢献するが、度が過ぎると投資対象としての魅力が薄れて参加者が減り、価格決定が適切に行われなくなる
1961-65年 ツイスト・オペレーション
1987年10月19日 ブラックマンデー
FRB:貨幣価値管理
財務省:調達管理
第九章
日本銀行 1882-
初期は政府に対しても貸出し
日露戦争時には戦費調達のため外債を発行
1904年に2200万ポンド
1905年に6000万ポンド
昭和初期の高橋財政
かなりの部分を市中で売却する
景気回復後は民間の投資先と競合し、日銀引き受けが増加
1936年の予算編成時
「財政上の信用といふものは無形のものである、その信用維持が最大の急務である、唯国防のみに専念して悪性インフレを惹き起こしその信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して安固とはなり得ない」
軍事費増額を求める軍部と対立
二・二六事件で殺害
p.166 政府債務残高(年度末)
1931年:100億以下 1941年:400億くらい 1945年:2000億くらい
税収も、1931年:7億強から1945年:103億へ
民間に無理やり買わせたので日銀引き受けは100億以下に留まったが、インフレは抑止できず
第十章
1947年 財政法第五条 国債の日銀引き受けは禁止(ただし復興債等はおk)
日銀保有有価証券額 1946年末:30億 1949年末2000億
昭和30年代 均衡財政
以前の国債は無価値になり、新規に発行もされないので、国債がほとんど流通しない
p.176に現在の日銀の金融調節の手段が
昭和30年代の日銀は民間銀行への貸出しによって調節
1962年(S.37年)新金融調節方式
市中銀行への貸出しから債券買入れによる調節へ
第十一章
しかし株価は低迷。証券会社の経営危機や大手企業の倒産も
均衡財政を諦め、国債の発行を検討
国債の買い手が誰か?
1.市中 2.大蔵省資金運用部 3.日本銀行
日銀副総裁は市中での消化を主張。
売りオペより買いオペで調節する方が楽だという理由も
結局1と2に。
市中消化の内訳は大部分が市中銀行
1966年に700億円の国債を発行
市中でかなりの部分を消化できたので、買いオペが容易に
ただし、国債発行を形式的なものにしないために、発行から1年以上経過した国債のみを買いオペの対象に
第十二章
1973年 第一次オイルショック
企業はエネルギー価格の高騰に対応するために、省エネルギー技術を開発、またリストラも断行
貿易黒字が拡大し、海外からは内需拡大を求める声が強まる
国債発行額の拡大
1975年度:5兆円 1978年度:10兆円(以降、同等の水準が維持)
1979年 景気回復するも、第二次オイルショック
物価上昇率のピークは1974年
卸売物価指数:+27.5 消費者物価指数:+23.2%
1979年には財政再建の機運
1980年 財政再建元年
諸費税導入を議論するも、国民の強い反発に
初期の国債は比較的短期間のうちに買いオペで回収されることが多かったが、国債発行残高の増大に伴い、市中銀行に大部分が留まるようになる
景気回復とともに金利上昇→国債流通価格低下→銀行は国債の評価損に悩む
政府は市中売却を認めたが、十分な流動化はなされず
国債の値下がり問題を受けて、80年代以降、公募入札(自由金利)による発行へ
第十三章
日米間に大きな利率差
保険会社などは米国の債券に投資し利率差の恩恵を
1ドル=250円の円安
ドル高が米国に不利益をもたらしていたため、プラザホテルで各国の代表者を集めて会議
ドル安の方向に為替介入(プラザ合意)
1986年には1ドル=150円まで円高に
円高が行き過ぎたため、日本が不況に
財政政策の積極化→バブルに
バブル景気を受けて税収増
国債発行額は80年、82年の14兆円台をピークに漸減
1989年度には6兆円台に
バブル崩壊(1991年)後に金融緩和
95年に公定歩合が0.5%に
2001年からは量的緩和に
財政政策(公共投資等)を行ったために国債発行は増えるも、低金利のため国債費の比率は抑えられる
第十四章
1998年末 運用部ショック
それまで資金運用部は余剰資金で国債の買入れ
当時は財投計画額が増加し、財源の郵便貯金は(満期のラッシュで)減額
資金運用部が国債買入れを停止するという予測から、数日で十年債指標銘柄は1.32%->1.9%に
第十五章