医学の歴史

医学の歴史 (講談社学術文庫)

医学の歴史 (講談社学術文庫)

amazonの評にもあるが、古代〜近代にページが割かれており、現代(19or20世紀以降)の医学についてはそれほど詳しくない。


目次

第1章 人類と医学のあけぼの

第2章 イオニアの自然哲学とヒポクラテス

第3章 アテナイの輝きとアレクサンドリアの後光

第4章 イエス、ガレノス、そして中世

第5章 インドと中国の古代医学

第6章 シリア人とアラブ人の世界史的役割

第7章 芸術家と医師のルネサンス

第8章 科学革命の時代

第9章 近代と現代のはざまで

第10章 進歩の世紀の医師と民衆

第11章 西欧医学と日本人

第12章 戦争の世紀、平和の世紀





第1章 人類と医学のあけぼの


神農:薬草についての書物を著す?

黄帝医学書を著す?



第2章 イオニアの自然哲学とヒポクラテス


「医者の息子によくあるように、彼は医学を嫌っていたらしい」(クールナンによるアリストテレスに関する記述)


ヘロフィロス

解剖学の父。

十二指腸、前立腺などの命名者。

人体を解剖し、最初の解剖学書を著す。

神経を運動性と知覚性に分け、脳を知能の座であるとして。(アリストテレスの心臓説と対立する)

動脈と静脈の区別。

積極的な外科手術。(それまでは自然治癒力に委ねるのが普通)


エラシストラトス

生理学の父。



マクドネルによる古代ローマの死亡表(碑文の記録から)

平均寿命 男:22歳 女:21歳

標準偏差 男:20歳 女:16歳


ローマでは医学は発達せず、ギリシャ人の医師に市民権を与え治療を任せる

ローマの物質的豊かさが創造よりも編集に駆り立てた?


ガレノス(129-199)

小アジアのペルガモン生まれ

郷里の剣闘士学校の医師になるが、志を立ててローマへ。

臨床医として名声を得るが他の医師を批判し対立。

「追剥と医者とは差別がない。ただ追剥は山野で、医師はローマの真中で、悪事を働くだけのことだ」

郷里に戻るが、マルクス・アウレリウス帝に呼び戻される。(ストア派哲学者から高く評価)


解剖学を重視。「解剖学なしの医者は、設計書なしの建築屋だ」

消化器や肝臓の働きにも着目。




医学校の歴史

ペルシアのジュンディ・シャープール 5世紀末から

唐代(624)に大医署を設置

サレルノ 9世紀に医学校設立 11-12世紀に栄える


サレルノ大学 尿検査を重視


修道院が看護の中心地に

教会によって設立された病院も数多い



14世紀のペストの大流行で「公衆衛生」の概念。

汚染地からの船の到着で感染が広がるので、行政が「四十日隔離」などの施策を取った。



扁鵲の六つの不治

わがまま

金を惜しんで体を惜しまない

病人にふさわしい衣服や食事をしない

精神が安定しない

衰弱しすぎて薬を受け付けない

巫を信じて医を信じない



5-7世紀にシリアでヘレニズムの高揚

2世紀にキリスト教会(ただしネストリウス派など)がシリアを中心に活動

学校もあり、神学を中心に、医学、音楽、幾何学天文学も教える

ローマ皇帝によって一部が閉鎖。

ササン朝ペルシア王はジュンディーシャープール(イラン西部、イラクバグダードより数百km東)に避難所を提供。

以降、アッバース朝時代にバグダードに文化の中心が移るまで、中東の学問の中心に。



(中世の)自由学芸7科:文法学、論理学、修辞学、幾何学、算術、天文学、音楽

下位の7つの技芸:機織、建築、航行、耕作、狩猟、医術、演劇



パラケルスス(1493-1541)

大学に失望し、旅をしながら診療。

『鉱夫病』鉱山で働く鉱夫特有の病気についての著作。

産業医学のはしり?


ヴェサリウス(1514-1564)

ブリュッセルの宮廷薬剤師の息子

幼少期から身の回りの動物を解剖

パリで学んだが、座学中心で満足できる内容ではなかった。

時折行われる解剖の執刀者に任命される。


その語パリを離れヴェネチアへ。

同郷のカルカルに会い、共にパドヴァへ。

カルカルはイタリアのティツィアーノの工房で修業した画家。

カルカルの協力の下、ヴェサリウスは『人体の構造に関する7つの書(ファブリカ)』を完成。

660ページ、300以上の銅版画を含む本は当時としては異例。

出版された1543年にはコペルニクスの『天体の回転について』も出版。



1600年ごろ顕微鏡ができ、その後急激に改良・普及

現在発見者の名前がついている体内の微小な器官は、17世紀に発見されたものが多い。



1628年 ハーヴィ『心臓と血液の運動』



ロイヤル・ソサエティ

ボイルの"Invisible College"が主体。

元々民間の団体だが、チャールズ2世が公認。



1700年 ラマッチーニ『働く人々の病気』



ブールハーフェ(1668-1738)

オランダのライデンで医学教育に大きな成果。

当時のライデン大学は思想・宗教を問わなかったので、様々な国から留学生が来ていた。


リンネ(1707-78)

植物学者・博物学者として有名だが、医者でもある。

当時の欧州で植物の研究をするのに医者が有利だった。

(薬草の利用、コストに見合う成果)

当時のスウェーデン北方戦争で敗れたものの、それなりの国力を維持。

(当時の)領内に6つの医科大学



ジェンナーの種痘法

元々アジアなどで、天然痘患者の衣服などを子供に触らせて感染させることで、抵抗力がつくことは分かっていた。

また天然痘毒は乾くと弱まるが、中央アジアではこの方法で弱毒化した天然痘を皮下に注射する方法が用いられた。

これはアフリカ、トルコでも行われ、コンスタンティノープルを訪れた英国大使のモンタギュ夫人によって英国の王族・貴族にも広まった。

(彼女らは自分の子供で試してみた)


ヨハン・ペーター・フランク

公衆衛生(医事行政)の先駆



ピネル(1745-1826)



ウィルヒョウ(1821-1902)

プロイセンに属していたポメラニアの出身。

他にポメラニア出身の学者としては物理学者のクラウジウス(1822-88)など。



ミアスマ(瘴気)とコンタギオン接触感染)



パストゥール(1822-95)

「医者ではないが最も医学に貢献した人物」



コッホ(1843-1910)




第11章 西欧医学と日本人



南蛮外科 ポルトガル

紅毛外科 オランダ流



曲直瀬道三

『啓迪集』


本阿弥光悦(1558-1637)

ガリレオガリレイ(1564-1642)と生没年が近い。



後世派 李朱医学を洗練

古方派 『傷寒論』を重視

古方派は積極的な実験によって治療法の効果を確かめた。


ターヘル・アナトミア

ドイツ人クルムスの著作。ヴェサリウス解剖学の流れを汲む。

玄白と良沢はオランダ語版を入手。

刑場で解剖を見学し、本の内容の正確さに驚嘆する。

解剖に当たった老解剖手の話。「今までも多くの医者に見せたが、こんなに各部位に興味を示した人間はいない」


解体新書は漢文で書かれた。

翻訳者の出身地に「日本」を加えたことを勘案すると、中国への輸出も意図していたようだ。



1823年 シーボルト来日

楠本タキという元遊女を妻とし、娘イネをもうける。

娘も医者になる。


佐藤泰然

順天堂を設立


ウィリス

英国公使館付医官

戊辰戦争で両軍の怪我人を救う。


東京に大病院を作る計画(後の東京大学)が持ち上がり、そこで教える契約をするが、計画の立案者の数名がドイツ医学を推す。


福沢諭吉「医学の範をドイツに採るがごときは、人の子を毒するもの」

当時の英国流:臨床指向、病院中心

当時のドイツ流:研究指向、大学中心


ウィリスはその後鹿児島に。





第12章 戦争の世紀、平和の世紀


パブロフ(1849-1936)


シェリントン(1857-1952)

ウィルヒョウ、コッホ、ゴルツらの下で学ぶ。

シナプス」の語を作る。


ベイリススターリン

セレクチンを発見。「ホルモン」の概念を提唱。